昭和五十四年十月三十一日 朝の御理解


御理解第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」


 信心をすれば、誰でもが御神徳を受ける事が出来る。ですから、信心がどこまでも金光大神の信心であり、いわゆる、金光大神の世界に住まわせて頂けるほどのお徳を、金光教で言う「御神徳」と言うのだと思うです、ね。金光大神の世界に住む。金光様の信心を頂いておるから、「金光大神の世界に住んでおる」と、言う事は言えません。
 金光大神の世界は、勿論広い。様々なお徳がございます。神徳、霊徳、衣の徳、身の徳、ね。金銭の徳、と言うように、まあ、この頃文男先生が申しておりましたが、「合楽の信心は五徳を受けていくんだ」と気づかせて頂いた、と言う事を要っております。
 まあ、いろんな中に、丁度思っておる所に、前へさっと入って来た車が「五一九」というナンバーの車である。ハハァこういう信心をしていく事が、「五徳(御徳)が身に付く事だなあ」と思うたと言う。五一九ですかね、五徳。
ですから、せっかく御神徳を頂いても、只、一部的なものではいけない。いうなら足ろうたおかげを頂くためにも、いわゆる五徳足ろうたおかげを頂きたい、ね。健康の徳は頂いておっても、経済の面で難儀をしておるなら、金の徳がついてない証拠だ、ね。まあ、足ろうたお徳を頂かなきゃいけない。
 昨日、研修の時にも、ちょっと話した事ですけれども。昨日、一昨日が郷ノ浦教会の秋の御大祭。「御説教を頼まれておりましたから」と言うて、末永先生があちらへ、宮崎から帰りまして。ですから、もう、寝る暇もないようにして「飛行機で行く」と言うておりましたが。もう、で、ないと間に合わん訳です。
 それで今度、南米に帰らしてもらうのに、またと時間はないから、壱岐の方へも回ってくる。いわゆる里の方へも回って来たい、と。それで家族中で、ま、「おかげを頂きたい」と、言う事でございました。一番下の娘だけを、こちらの姉妹に預けてまいりました。
 この頃から、もう本当に、「末永先生、末永先生」と言うて、あっちこっちから、もう本当に勿体ない、と、本人も思うだろう。私も思うほどしに、いろいろと、ま、お洋服やら、それこそ、何からかにまでこ、足ろうて来て、おかげを頂いてきておる。もう最後には、も、お洋服だけは、あちらこちらから、いくらも上等なつを頂いとりますから、と言うて断らんなん程であった。と言うております。
 も、先日、家族中で福岡に参りまして、いろいろ、もうそれこそ何でも、例えば、子供達のものでも、先生が履きます靴なんかでも、靴屋に行って、「一番最高なつを下さい」と、言うて買われた。というようにです。本当に、勿体ない話だ。と、いうように、身についていきよるのですよね。あれこれ、信心の徳です。本当に、ま、有難い事だ、と思いますが。
 その中で家族中で、ここに出てまいりました時に、初めて、そのうハハァ、これがこの頃から頂いた洋服ばいな。これはとても本当、やっぱし外国に帰って行く人達のような、例えば、子供たちでも、皮のハンチングのような、ね。うちあたりの子供でも、まだ、かぶった事もないごたる帽子をかぶって、皆、こえらしい風にさせて頂いて、もう本当に、もう胸が熱うなるような、あの人達が立って行く時に、そう思いましてね。
 はあ神様の働きは、も、おそれ要ってしまうと思うのです。それで昨日も、そういう風で、衣なら衣の徳、食なら食の徳を受けたけれども。そんなら衣食住と、いうから、今度は、あちらへ帰らして頂いたら、お広前の上にも、住まいの上にも、また、あの通りのおかげを頂かなきゃ、ならん。為には、どうしても足ろうた徳を受けとかなきゃ、できないよ。私は、も、これを一番大切にする。
 ここで例えば、ね。なかなか、そのう完璧と、言う事では、ないですけれども、大体、合楽の場合なんかは、足ろうとりますもんね。 例えば、御大祭なら御大祭の時に、例えば、どれが欠げた、と、言ったようなものはない。ここでおかげを受けておる姿、と言うものは、まあ、いうならば、真善美にも、言うならばつながっておるような感じで、おかげが段々、それがそのまま大きくなっておる。というのが合楽。ね。
 いうなら、衣食住の事だけでない。全ての点に、そういうおかげを頂いております。ですから、もし、そこに欠げたものがある、と、するならば、これは、まあだ、自分の信心が欠げておる。と思うて、そこん所の精進を、ま、していかなければいけない。
 皆さん、合楽では、どうでも足ろうた信心。そのかわりに、足ろうたおかげ。ね。いうならば、貧争病のない世界、に、住まわせて頂くほどしのお徳を、身につけたい、と思います。また皆さんにもつけて頂きたい、と思います。足らわにゃ、いけません、ね。為には、一家が、いよいよ勢を揃えた信心。そして、そういう焦点に向かって、一家中の者が進んで行く、というおかげにならなければ、いけんのです。
 皆さん、そういうお徳をです。誰でも受けられる、とおっしゃるが、ね。誰でも、そういうおかげが受けられるおかげを頂くために、いよいよ信心を広め深め、していかなきゃなりません。けれども、お徳を受けておられる。けれども、何かが、そこに欠げておる。
 あれは、どうした訳だろうか、と、いったような、いうならお徳が、チンバを踏んでおるような感じのお徳を、受けられた方達をいくらも、私共は知っておりますけれどもね。私は、どうでも、それこそ文男先生じゃないけれども、五徳足ろうたおかげを頂かなきゃ。勿論、その芯をなすものは、信心辛抱です。
 辛抱力がなからにゃいけません。ね。まず辛抱力を作る。その辛抱も、だから、うれしゅう楽しゅう出来るようなおかげを、頂かなきゃいけません。五徳というのは、こ、火鉢の中に、ね。こうやって差し込まれる、あれが「五徳」という。「熱い、冷たい」言うちゃならん、ね。それこそ、いよいよ心行、そして家業の行。
 いよいよ合楽理念の実験実証者として、ね。信心の真を現わしていきながら、代勝りのおかげにつながっていくような、おかげを頂きたい。そこで、合楽でそう言われる、合楽理念の芯になるものは、どこまでも天の心地の心であり、日月の心なのです。だから、天地の心、いうならば、日月の心、ね。そういう修行が出来た時に、はじめて足ろうた修行、という事になり、足ろうたお徳が、身についてくる、と、言う風に思うのです。
 今朝から、私、お夢を頂いたが、私は、本当に、私も尊敬申し上げておるだけではない。合楽の信心の上にも、大変いろいろと御教導頂いておる、甘木の初代の安武松太郎先生、のお夢を頂くんですけれども。今朝方からも、それを頂いて、それがもう、何か友達のような風で、大坪さん、と、言うような表現です。
 大坪さんじゃなかった、大坪先生、「大坪先生、白一色で行きましょう」と言われるんです。ね。そして、「あなたの信心は、死んで見なきゃわかりません」と言われるんです。ね。例えば、昨日の御理解で言うと、私の言う親孝行、というのは、ね。生きとる間は、わからないかも知れん。
 霊様になってみて、あっ成程、大坪は、こういう真からの親孝行をする男であったな、とわかるようにです。白一色で行きましょう。とこう言う、ね。あなたの信心は、大坪先生、あなたの信心は、死んでみなけりゃわかりません。これは、私自身も、死んでみなければわかりません、と言われるが。または、私の話を、皆さんが聞いて下さってある。
親先生が、「あげたこつ」言うが、ほんなこつじゃろうか、と、ま、疑い。半信半疑で聞いとる人も、あるかも知れません、ね。けれども死んでみて、これは善導寺の久保山先生が亡くなられてから、直後でしたけども、親先生、あなたの言われる通りでした。
 だから、この世におられた時は、私の言う事を半信半疑でおられた訳ですね。久保山先生は。そして、あちらへ行って、「親先生、あなたの言われる通りでした」と言われるお夢を頂いた事が、ございますがね。そして、白一色で行きましょう。と。色がついてない。それは、どういう事か、というと、これも椛目時代に頂いた御理解の中に[白という 色の深さや 陶の秋]という御理解を頂いた事がありますよね。
 皆さん、覚えとられると思う。白という色の深さや陶の秋、ね。何でもない、白ですから。ところが、その味わい、というか、深さというかね。例えば、「柿右衛門の白磁とか、にごし絵なんか」と言うのは、素晴らしいんです。同じ白でも、そういう、もう何ともかんとも言えん深さを持っておる。という訳なんです。
 ですから、あまりにも深いから、なら、わからない。やっぱり赤が良かったり、青が良かったりするような感じが、するけれども、白という信心のその深さ、というものには、もう限りがない。
 昨日、鞍手地区の方達が月末御礼に、皆で出てみえました。なかなか、一人一人が大変なところを通っておられます。もう、いよいよ神様を信じて、それこそ元気な心で、それこそ元気な心で行かな、やっていけないようなところもあります。
 柴田さんが、昨日の朝、頂いたお夢に、Z『合楽の親先生が天理教の教祖「中山みき」と言われる、ね。その天理教の教祖と向い合って、も、「こげな美味しいお茶はない」というような顔で、二人が向き合って、お茶を、すすっておられる』お知らせを頂いた。とこう言われる。皆さん、どういうふうに思いますですか。
 合楽の信心が、「それこそ土の信心に極まった」と言われて、土の信心に、お互い一生懸命になってまいりました。いわゆる黙って治める、ね。というような信心です。それが、ま、出来ておる人もありゃ、出来てない人もあります。けどももう、「いつまでもグズグズしておられん」と言うので、神様は、最近は、合楽には「天の心」という天の信心と言う事を、もう非常に求められます。ね。
 今迄も、「天の心とは美わしい心、しかも無条件の真心」というふうに説かれてまいりました。土の信心はどこまでも、「いわゆる黙って治める」。いうならば、大地のように、ね。「大きな豊かな、どういう煩わしいものが、ここに落ちて来ても、それをだまって受けていく。というだけではなくて、それを自分の根肥やしとも、していこう」という程しの土の信心。
 それに加えて、いわば天の心の徹底を、最近は言われます。この天の信心が言われる時に頂いたのが、私、天理教の教祖の御信心でしたね。覚えとられるですね、皆さんも。天理教の教祖というのは、もうそれこそ「天理」という、天の理を説き明かされた訳ですけれども。もう天の心をそのままに、自分の信心の上に現わされた御方です。ね。もうそれこそ、もう総ても神に捧げ、勿論、それは人に捧げる。
 いわゆる、あのう「ひのきしん」なんという、まあ修行でしょうかね。天理教でいう。どんなに素晴らしい着物を持っておっても、着物の上から天理教の、あのひのきしんの時には、あのハッピを着て、この頃、アメリカの天理教の分教所というでしょうかね。のテレビで出てましたが、やっぱりアメリカ人の信者でも、皆、天理教の、もう、どんな洋服なんか、は、着らん。それを上着を脱いで、天理教のハッピを着て、いろいろ御用をしてるんです。ね。
 いうならば最近、天の心の信心というのは、ね。只、美しい心、しかも無条件な心だけでなくて、「それにいさぎよい心」という事が説かれます。ね。いさぎよい心が、そこには生まれてまいりませんと、「本当の天の心の味わい」というか、お徳は受けられません、ね。
 鞍手の柴田さんが頂かれたのは、そういう意味の事であろうとこう。あの人も女ながらに、それこそ、いさぎよい人ですから、タイプもそうですもんね。まるっきり男のような方です。こうして歩かれます。
 今度、合楽の燃料のすべてを新館、今度の所の御用をさして頂きたい。と言うて先日から、その設備をする方達を、まだ、こちらは知りませんのに、向うから調べにきなさって、あのう、ま、そういう準備をしておられます。女ながらも、大きな願いを立てておられます。
 ですから、も、これ位な修行は、も、当たり前と思います。というふうに昨日は、言っておられました。大変な修行に取り組んでおられます。ね。そしたら、天理教の教祖、中山みきと合楽の親先生が差し向かいで、こんな美味しいお茶はない、と、いうようにして、お茶を召し上がるところを、お夢に頂いた、という。ね。
 いうならば、私と相対して、いけれる程しの信心を、神様は、柴田さんに求めておられるのじゃないでしょうか。中山みきという、いうならば天理教の教祖のような心構えで、本気で信心さしてもろうて、ね。親先生の信心とこうやって、差し向かいで、ね。おかげの頂けれるような心の状態を、作れよという事であろうと、言うて、ま、昨日、伝えさして頂いた事でございました。ね。
 それには、いよいよ信心を深めなければならない。しかも、ただ深める、と言うても、ただ一点だけを、と言うのじゃなくて、も、万事に五つの徳が足ろうていく程しの信心。それには、合楽で言われる合楽理念に基づくところの信心であり、合楽理念によるところの御神徳を受けなければならない。それは、文男先生が言うように、五徳につながっていく。と言うのです。
 だから、皆さんの場合もですね。例えば、十なら十のおみやげを頂いておるならば、その十のおかげでです。いうならば、あれもこれもが足ろうておるかどうかを見なきゃ、いけません、ね。足ろうておらんなら、それが足ろうて、そして、今度は、百の信心になったら、百の信心の所で、やはり足ろうて行かなければいけない。
 これだけが抜きんでて、お金だけは、こんな沢山出来た。「けれども家には病人が絶えん、といったような事じゃいけん」と言うのです。ね。一切が、こ、足ろうて伸びていく、というおかげ、ね。それには、いよいよ、ね。「深い信心」という事になりますが。その深い信心は、天地日月の心を、いよいよ合楽理念によって、マスターさせてもらい。それを実験実証していく以外にはない。そういう信心で初めて、信心すれば誰でも、お徳が受けられる、という事では、ないでしょうかね。どうぞ。